バーラック・パレットラック・正ネス・逆ネス・移動ラックの設計・製造・販売の株式会社ゴーリキ

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製品一覧
会社沿革

ゴーリキを知る!会社沿革

三代目 強力 修

3-1|新規事業へのチャレンジ

カツオ船に乗り込む少し前のこと。当時、常務だった修は、造船の受注が減少の一途をたどっていたことに強い危機感を抱き、新規事業の模索を始めていた。無人ゴルフカート製造に、中国石鹸・中国鰻の輸入など、あれこれチャレンジするも、ほとんどが失敗。その中で唯一、事業として成功したのが「長尺重量物用ラック」だった。

長尺重量物用ラックに目を着けたのは、木材業界にいた義兄が、ドイツの木工展で見てきたことがきっかけだ。当時、日本国内の製材業者は、高温の窯の中で木材を乾燥させる人工乾燥の知識も技術もなく、製材した木材を広い敷地に人の手で平面的に広げ、露天干し(天然乾燥)していた。ラック(保管棚)の必要性すら感じていない時代であった。これに対してドイツの展示会で見たラックは、何段もの棚に木材を立体的に積んで、少ないスペースで大量の木材を効率的に乾燥させることができる。いずれ日本でも必要とされる時代が来るはずだ。それに、造船で培った技術で造れそうだ。修はチャンスだと考えた。

昭和58年(1983年)10月にラック事業がスタートした。昭和61年(1986年)には株式会社ゴーリキとして分社化。これ以降、細々とではあったが、木材ラックの開発と製造が続けられた。

新規事業へのチャレンジ

3-2|造船からの撤退

平成2年(1990年)、クウェートを侵攻したイラクに対してアメリカをはじめとした多国籍軍が攻撃を行い、湾岸戦争が勃発。日本は90憶ドルを支援し、各省庁の予算は削減され、不況に陥ることとなった。以前から減り始めていた船の受注は、これを機に激減。瀬戸内海を中心に、全国各地で中小の造船所が倒産へと追いやられた。

修が3代目社長に就任したのは、そんなまっただ中の平成3年(1991年)のことである。そして6年後の平成9年(1997年)、ついに造船業の廃業を決めた。祖父の興した造船会社をたたむ決断ができたのは、当時の国土交通省に勤務する大学時代からの友人の言葉があったからだ。修が、「日本は、今後の造船業をどう考えているのだろう?」と訊ねると、「散る桜 残る桜も 散る桜」の句とともに、「造船所は今の半分になる。国はこれまでのように助けない」と言い切ったのだ。株式会社強力造船所は、株式会社ゴーリキに吸収され、造船会社としての歴史は幕を閉じた。

3-3|節目で助けてくれた存在

造船業からの撤退を決めた当時、長尺重量物用ラックは年間売上2000~3000万円へと育ってきていたものの、会社には13億円もの借入金があった。株式会社強力造船所の社員120名には、9人を残して退職をしてもらうしかなかった。修は、会議の場でいっせいに言い渡すのではなく、一人ひとりと個別に話をした。同じ造船業で働くことを希望した社員は退職者の8割に上ったため、近隣の造船会社をまわって頼み込み、再就職先を確保した。

それでも退職金の問題があった。必要なのは、億単位の資金。2代目・3代目社長の家を売り、さらに当時の本社工場の土地を処分せざるを得なかった。修がそのことを、2代目から付き合いのあった市内の土木建築会社の社長に相談すると、詳しい事情も聞かず、「あんたのお父さんにはよく世話になった。あんたの言うことやったら何でも聞く。いくらや?」と言い値で買ってくれた。善次の時代から保有していた百五銀行の株30万株も現金化した。銀行には10億円の借入金があり、本来なら銀行も株を売った現金の中から回収したいはずであった。それでも百五銀行が株式会社ゴーリキを見捨てなかったのは、2代目社長・辰夫が、百五銀行の“中興の祖”と言われた当時の金丸吉生頭取との間に築いた、強い絆があったからだろう。辰夫は、修に車を運転させ、豪農でもあった金丸家を月に一度は必ず訪ねていた。ヘネシーのXOと和田金の肉を持参し、2時間ほど世間話しをする。帰りはいつもトランクいっぱいの野菜が用意されていた。仕事の話は帰る間際の5分だけ。そんな辰夫のことを、金丸氏はずいぶん可愛がってくれたものだ。
そんな中で10億円の借入金返済があっても、わずかな売上高で滞りなく事業を続けることができた。
実はこの時期、修は社員全員に会社の財政事情を洗いざらい、少しも包み隠さず報告していた。すると当時の常務をはじめとする社員が、自らの考えでお客様から前金で売り上げを回収してきてくれたのだ。それほどまでに社員は自分ごととして、会社を守ってくれていた。「社員の力に助けられた」と修は振り返る。

3-4|長尺重量物用ラックの成功

長尺重量物用ラック事業は、最初から順調だったわけではない。正式に事業化する前年の昭和57年(1982年)、初めて名古屋の木工機械の展示会に出展したが、来場客から「これは何をするもの?」「どうやって積んでいくの?」との質問が相次いだ。ラックがどんなものかも、フォークリフトで積むことも知らない人がほとんどで、その後の大阪、東京での展示会でも同様。売上は3年間で数十万円にしか届かなかった。ただ、当初ラック事業は造船会社の一事業部であったため、赤字でも事業が継続できたのだ。

状況が一転したのは、1980年代後半から始まったバブル経済である。国内の住宅着工件数が、年間120万戸から一気に160万戸台へと急増し、合わせて木材需要も増加の一途をたどった。製材業者は大量に製造しジャストインタイムで届けるため、ラックの欠かせない時代が急激に到来した。売上高はバブル崩壊後も増え続け、1990年代初期の1億円程度から、2010年代半ばには4億円台まで増加。この間には、移動ラックや物流テント倉庫といった新商品も開発して、顧客ニーズに応えたのである。

3-5|船で培った非常識な技術

ゴーリキの長尺重量物用ラックが広く使われるようになった勝因は、一つには発売時期がタイムリーだったこと。もう一つは、確かな技術力だろう。
ラックは、垂直の柱から、木材を支える「腕」が前方へ伸びている。もちろん他社からも出ているが、ゴーリキのラックには大きな特長が2つある。

固定バーラック・ピッカー

固定バーラック・ピッカー

  • 1. 腕の幅が10cmと細いため、上下の段の間隔が広く、木材を多く保管できる。

  • 2. 一般的な製品は腕を柱にボルト止めするが、ゴーリキのラックは腕の先端のフック部を柱の穴に引っかけるだけでいいので、簡単に各段の高さを変えられる。ホームセンター閉店後の商品入れ替え作業も、短時間で、しかも通常2人がかりだったのを1人でできるようになる。

これを可能にしたのが、別々につくられたフック部分と腕の本体を溶接する技術だ。強度を確保するため、フックは合金の鋳物で、腕は鉄でできているが、実は世間一般では、鋳物と鉄の溶接はタブー。堅くなる分、もろくなり、ぶつけると割れてしまうのだ。ところが「造船の常識は、世の中の非常識」。船のスクリューのシャフトが通る船体の穴には、耐摩耗性・耐衝撃性の高い合金製の鋳物が使われ、船体の鉄部と溶接されている。造船では昔から普通に、鉄と鋳物を溶接していた。その技術の応用で、他社にできないラックが誕生したのである。

3-6|ホームセンタートップ5が採用へ

長尺重量物用ラックの発売から長い間、修はホームセンター向けには販売しない方針だった。確かに市場規模は大きいだろう。だが、手作業で製造しているため、大量生産できない。やり方を変えて薄利多売に走るつもりもなかった。

ところが平成18年(2006年)頃、当時、東京で営業に従事していた修の長男で、後の4代目社長となる強力雄のもとに、あるホームセンターから問合せが入る。もちろん雄は修の方針を理解していたが、断るには何か引っかかる。そこで「検討します」と返事をして、修に相談した。じかに話を聞いてみると、その企業が本気で現場を改革しようとしていることが伝わってきた。応えられるのは、自分たちの製品だけだ。「やってみるか」。修は十分な量を供給できるよう、ものづくりの方法を見直すことにした。

そうして取り組んだのが、職人が手作業で行っていた溶接技術の、ロボットへの移植だ。溶接のスピードからトーチの角度、電流量に至るまで、当時の工場長の努力によって自動化が実現した。これによって生産効率が格段に上がった。

「これがある意味、大きな転機だった」と修は言う。今やゴーリキのラックは、長尺で重量のある木材や鋼材の保管用として、ホームセンターのトップ5が導入。特に令和に入ってからは、コロナ禍によるDIY人気の高まりを受けてホームセンターの出店も増え、ラックのニーズもさらに伸びた。製造業の工場での導入も増えている。以前は競合となっていたフォークリフトのメーカーは、今ではユーザー企業がゴーリキのラックを検討していると分かると、自社製品ではなく当社製ラックを仕入れて販売してくれるほど、その品質を認めてくれている。

ホームセンタートップ5

長尺重量物用ラックの立ち上げ当時を振り返って、修は言う。「不採算部門は、やめちゃダメ。やみくもに切るんじゃなく、不採算じゃなくなるよう努力すれば、成長のヒントをくれる」。

3-7|3代目の引き際

修は65歳となった平成28年(2016年)、雄に社長業を引き継ぎ会長に就任した。当初、「5年間は、人事のことだけは自分がやる」と言っていたが、ほどなくそれを撤回した。
人事に携わろうとすれば、結局、給与にも関わることとなり、会社の財務のことにも目を向けねばならない。また、社員が気を遣ってのことだろうが、新社長の雄を飛び越えて、自分のところへ相談に来たことにも危機感を覚えた。これではいつまでも、権限委譲は進まない。

以後、修は毎日、会社に顔は出すものの、経営には一切タッチしていない。令和5年(2023年)現在、修が力を注いでいるのは、社会貢献活動。造船時代の2002年から始めた障がいの有無に関係なく誰もが楽しめるセーリング普及団体「NPO法人セイラビリティ三重」とその艇をオーストラリアから輸入販売する「一般社団法人ハンザ・セイリング・ジャパン」の両方の代表を務め、輸入販売で得た利益を普及活動に注ぎ込んでいる。鳥羽商船高等専門学校と共同で、視覚障がい者が操縦するヨットを誘導するためのGPSナビゲーションシステムの開発も行った。昔とは違う形だが、「船からは離れられない」と言う。

四代目強力 雄
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