
2-1|27歳で社長就任
昭和20年(1945年)、強力辰夫は、27歳という若さで社長に就任した。これは初代・善次が会社を創業したのと同じ年齢だ。善次は会長となったが、経営に関する決定権を握っていることに変わりはなかった。従業員も善次を慕って集まってきた者ばかり。辰夫は、操られるままの「ロボット社長」と陰でささやかれるのを覚悟のうえで、「どうか私に力を貸してほしい」と従業員たちに頭を下げた。
初代の善次が「ええもんさえ造っとりゃいい」という職人だったのに対して、辰夫は営業の才覚があり、顧客を非常に大切にする人物だった。先にも述べたように、造船学校で教えるだけの技術を持っていたが、のちに商工会議所の副会頭なども引き受けて地元の産業のために尽力し、息子で3代目の修は「やさしくて気の利く人間」という父の評判をあちこちで聞いた。しかし家庭では「そんないいところがどこにあるの…」と母がぼやくほどの仕事人間だった。
ところで、終戦直後、大湊の各造船所はGHQからいっさいの生産停止を命じられていたが、終戦翌年の昭和21年(1946年)になると、民間向けの船に限って、生産停止は解除された。これを受け、強力造船所はすぐに生産を再開した。この時期、船の需要は一気に高まっていた。理由は、戦時中にほとんどの船が軍に徴用され、失われるか、または傷ついていたこと。加えて、海流の関係であろうか、ちょうどこの時期にタイとフグの大漁が続いたためだ。強力造船所を含め大湊の造船所の間には、活気が戻ってきた。
2-2|日本一の木造船
辰夫は設計技術者と組んで、営業活動に力を入れた。おもな営業先は、戦前から善次とのつながりがあった船主だが、それだけにこだわらず全国へと範囲を広げた。
その中で宮城県の気仙沼の船主から受注したマグロ船「第三栄丸」が、後の成長の足がかりとなる。第三栄丸は、当時の日本で最大級の、239トンの木造漁船だ。これだけ大きな船を木で造ることは、まさに難題だった。材料の厳選に加え、設計にもそれまでにない発想が必要だった。
壁を越えられたのは、辰夫や設計技術者の努力もあるが、元東京大学教授・高木淳氏の助けが大きかった。高木氏は、大学を退官すると水産庁の漁船検査官などの要職に就き、最終的には漁船検査部門のトップを務めた人物。その仕事柄、強力造船所と接点があったのは必然だが、善次がなぜそこまで頼るようになったかはわからない。だが、3代目社長である修の結婚式に夫妻で参列するほど、強力造船所にとっては公私ともに付き合いのある恩人となった。善次は何かあるたび高木氏に相談し、周囲にもよく「うちには東大がついているからな!」と誇らしげに語ったものだった。
大型木造船に関しても、高木氏に相談したのは当然のことであった。そして指導を仰ぎながら、木でできた船体の内側に鉄製の遮蔽板を貼り、荒波にもまれても壊れないだけの剛性を備えた船を生み出した。第三栄丸は、こうして実現したのである。当時すでに大湊では「木造船の強力」と言われていたが、まさに「日本一の木造船」を造ってのけたのだ。
2-3|第五福竜丸改造
1954年、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われ、操業中の日本の漁船が被曝する痛ましい事故が起きた。ビキニ環礁周辺では一千隻近い船が被爆し、第五福竜丸は幽霊船のような状態で焼津港に入港し、日本中が大騒ぎとなった。船を引き取って秘密裏にことを収めたいアメリカとの間で交渉を重ね、日本は第五福竜丸を買い取り、東京水産大学の実習船にすることを決めた。
このとき船の改造を引き受けたのが、強力造船所である。他の造船所はどこも、国の入札に法外な金額を提示した。被曝船を扱いたくなかったのだ。唯一、強力造船所だけが800万円という適正な価格を提示して落札した。現在の価格で1億円ほどであろうか。「うちがやる」という意志表示ともとれるこの入札額の理由は、一つは善次の男気。もう一つは、厄介者として扱われる船を、善次自身の悲運な子ども時代に重ね合わせたためかもしれない。

弊社が改造した第五福竜丸(第五福竜丸展示館)
第五福竜丸は、引き取る前に東京水産大学で残留放射能検査を終えていたが、「放射能は伝染する」などの誤った俗説を信じる近隣住民の反対も大きかった。朝、会社に来てみると、入口に「早く出て行け」との貼り紙を見つけることも、一度や二度ではなかった。退職していった従業員もいた。当時、近隣の銭湯は燃料にする木材の切れ端を強力造船所からもらう代わりに、従業員を無料で入浴させてくれたものだが、入浴を断られることも増えていた。
それを変えたのは、宇治山田日赤病院の院長・服部先生との出会いである。地元の会合で知り合った辰夫が相談すると、住民への説明を買って出てくれたのだ。そしてガイガーカウンターを持参し、地域住民や取材に訪れた新聞社が見守る中で、放射線量を測定した。揺るがぬデータを見て、多くの人が納得してくれた。後でわかったことだが、服部先生と妻子は、広島の原爆の被爆者だった。
2-4|木造船から鉄の船へ
最盛期の大湊には、26もの造船会社があった。昭和30年代半ばを過ぎると、木造船の製造から鉄鋼船へと切り替えるところが増えてきた。「日本一の木造船」「木造船の強力」と言われてきた強力造船所は、そのプライドがかえって邪魔をして、鉄の船への転換をなかなか決断できずにいた。辰夫も厳格な善次に強く勧めることができなかった。だが、時代の波には逆らえない。ついに昭和36年(1961年)1月、鉄鋼船の製造を開始。昭和39年(1964年)には初の鉄鋼船を、宮城県気仙沼の船主に納入した。昭和40年代前半には、漁船に加えてタンカーや貨物船も製造するようになった。

やがて昭和58年(1983年)、「カツオ船を製造してくれないか」との相談が持ちかけられる。当時、マグロが人気だったのに対して、カツオは「生臭い」「色が悪い」と市場から敬遠されていた。「カツオ漁の衰退を防がなければ」と立ち上がったのが、鹿児島県枕崎・丸新商店の上野新作氏。10億円を投資し、新しいカツオ船を造ることにしたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが強力造船所だ。当時の強力造船所は、カツオ船では国内4番手。しかも、それまでに手がけた最大の船は299トン。それに対して、求められているのは499トンと格段に大型だ。それでも強力造船所に声がかかったのは、枕崎の名船頭・浜田達郎氏が、「強力に相談するといい」と上野氏に進言したからだ。浜田氏は強力造船所製の299トンの船を所有していたが、スピードより安定性を重視したその船を大いに気に入ってくれていたのだ。
2-5|カツオの冷凍をどうするか

カツオ船の開発は、当時32歳で後の3代目社長となる、辰夫の三男・修が主担当となった。問題となったのは、船体よりも冷凍技術だった。カツオは釣ってから冷凍に至るまでの短い時間が勝負だ。当時は釣ったカツオが、冷凍する前に死んでしまっていた。死後硬直が始まってから冷凍したカツオは、解凍しても黒く生臭い。それが敬遠されていた最大の原因だ。それを防ぐには、生きたままマイナス25℃の液体に入れ、肉質が変化する前に冷凍すればいい。そうすれば、解凍した後も生きていたときと同じように真っ赤な肉質の「特級品」になる。
カツオ船に求められたことは3つ。「解凍してから3~4時間は鮮やかな赤色を保てるような冷凍技術」「釣ったカツオをすみやかにマイナス25℃の液体に放り込めるコンベア」「餌となる繊細なカタクチイワシを長生きさせるシステム」だ。それを実現するための技術的課題を11項目に絞り、修と設計課長は、静岡県の焼津など各地の漁港へ足を運んで、さまざまな漁業関係者に話を聞いた。だが、それぞれ我流のため言うことが違い、埒があかない。試行錯誤を繰り返したものの、うまくいかないまま期限ばかりが迫ってきた。
2-6|「カツオ船日本一」

修は意を決して上野氏を訪ね、2カ月の納期延長を頼み込むとともに、「現場を見せてください」と懇願した。カツオ漁をその目で見てみようというのだ。3日後、修は浜田氏の船に船員として乗り込み、日本から遙か4000kmも離れた太平洋マーシャル沖へ30日間の漁に出た。
ビデオカメラと、1個当たり持続時間30分のバッテリーを大量に持ち込んだ修は、漁の様子を何度も何度もビデオで撮影した。1カ月もの間続く、陸地を離れた生活。「あそこにスコールの雲があるぞ!」と見つけると、急いで船をそちらに向かわせ、全員で裸になり、貴重な真水のシャワーを浴びたのは、日本ではまずできない新鮮な経験だった。
実際に見たカツオ漁は、修の想像とはまったく違っていた。まさに百聞は一見にしかず。現場を見たら一発で解決した課題があった一方で、見たことで意外に根が深いと分かった課題もあった。しかしそのかいあって、11項目あった課題を7項目に絞り、解決できる設備を考案し、期待に応える499トンのカツオ船を建造できたのだ。
新しい船で水揚げしたカツオは鮮度が保たれ、浜値が1kg当たり130円から360円と、約3倍に上がった。「カツオ船の強力」との評判が広がり、「これだったら、造船のために借金しても元が取れる」と立て続けに注文が入った。最盛期には、国内のカツオ船建造のうち、半数近くの依頼が強力造船所に寄せられた。初代が「マグロ船の強力」に育てた会社は、二代目社長の時代に、「カツオ船の強力」となったのだ。




























