バーラック・パレットラック・正ネス・逆ネス・移動ラックの設計・製造・販売の株式会社ゴーリキ

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製品一覧
会社沿革

ゴーリキを知る!会社沿革会社沿革

初代強力 善次

1-1|強力造船所創業

強力善次は明治25年(1892年)、鳥羽に生まれた。次男で、母親は善次を生んで間もなく亡くなった。やがて父は後妻を迎えるが、妻との間に子ができると、善次は虐げられるようになる。家の中に居場所のない善次は、わずか13歳で、現在のゴーリキがある地・大湊の松崎造船所へ丁稚奉公に出ることを決意した。鳥羽の家を出るとき、手にしていたのは、おにぎりとわらじ数足だけだった。

なぜ丁稚奉公先に造船所を選んだのか?それは鳥羽の実家が「辰船」という船名で廻船事業(海運業者)を営んでいたからだと思われる。この船名が、のちに生まれる長男に「辰夫」と名づける由来にもなった。

奉公先での善次は、熱心に船大工の修行に励み、大湊造船所徒弟学校にも通った。子ども時代からの負けず嫌いに、さらに輪をかけ、誰よりも努力したのであろう。着々と技術を身につけ、腕のいい船大工へと育っていった。

奉公13年目の大正7年(1918年)8月、27歳となった善次は独立を果たす。といっても、船は一人では造れない。最初から8人の従業員を雇った。わずか13年で、それも27歳でこれを成し遂げるのは、並大抵のことではなかった。
(余談であるが、強力造船所の創設日と2代目社長強力辰雄の誕生日は同日である。)

ただ、独立はしたものの即成功とはいかず、最初は苦労したようである。当時、大湊には江戸時代からの造船会社がいくつもあり、そこに鳥羽からやってきた若者が参入したのだから無理もない。組合にも加盟できず、仕事は小さい船の修理がほとんど。それでも「よりよい船を」の一心で、他では手がけていない西洋型の船を研究し、着実に船主の信頼を勝ち取っていったのだ。

1-2|小さいながらも高い技術

大湊町立造船従弟学校

大湊町立造船従弟学校 実習工場(写真:「伊勢大湊造船史」より)

会社が大きくなってくると、強力造船所には腕のいい職人が育ってきた。そのことを物語るエピソードがある。20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の際には、内宮入口の五十鈴川に架かる宇治橋が架け替えられるが、その職人は造船所が出すことになっていた。船の外板を造る技術と、橋を造る技術が、同じだったからだ。「何人の職人を宇治橋架け替えに出したか」が、造船所のステータスとされていたが、当時の強力造船所からは、けっこうな数の職人を出していた。
また善次自身が職人としてすぐれていたことを物語るエピソードも残っている。船を造るのには、脂分を多く含む宮崎県産の飫肥杉(おびすぎ)を使った。善次はこの木の買い付けに、自分で宮崎まで足を運んだ。図面も何もない状態で、木を見ただけで「この木は、船のこの部分に使う」と、瞬時に決断したという。

1-3|「給料と休みは多い方がいい」

腕のいい職人だった分、善次は社員に対して厳しく、大声で怒鳴ることもしばしばあった。「とにかく負けん気が強かった」とも、当時の社員は言う。しかし、朝怒っても、少し経つとケロッとしている、気さくでサバサバした性格だったという。
善次はどんな会社づくりをしたのか。ゴーリキには、この当時に善次が定めた3つの戒めが、今も伝わる。

一つ、手形は書くな
二つ、政治に手を出すな
三つ、取引銀行は一行にしろ
これらは後年になって大きな意味を持つことになる。

また社員に対しては、「給料と休みは多い方がいい」と、それらを惜しまず与えた。「戦後の不況で仕事がないときでも、減給されたことや、給与が遅れたことは一度もなかった」という当時の社員の証言も残る。丁稚奉公時代に苦しい経験をしたであろう善次は、社員にはその思いをさせたくない一心だったのだろう。

1-4|激動の戦中戦後

のちに2代目社長となる善次の長男・辰夫は、大手重工業メーカーの勤務を経て、昭和13年(1938年)、強力造船所に入社した。造船業に従事する一方で、大湊町立工業学校の代用教員として、造船の授業を受け持った。

次期社長の辰夫を迎え入れ、会社の将来に光が差したのもつかの間、昭和16年(1941年)、太平洋戦争が勃発する。強力造船所は、この地域のほかの造船会社とともに「海軍管理工場」に指定された。海軍の管理の下で、海軍が設計した船の建造を行う、軍需工場となったのだ。

激動の戦中戦後

昭和18年(1943年)、強力造船所は株式会社となり、機械工場、修理工場を増設した。善次が取締役社長、長男の辰夫は専務取締役に就任した。

昭和20年(1945年)の終戦後、GHQ(戦後の日本を占領統治した進駐軍)が大湊にもやって来た。日本の軍の幹部はGHQによって戦犯とされ、処罰を受けていた。善次は、「戦時中に造船に携わっていた会社も、戦争協力者として責めを受ける恐れがある」と危機感を募らせた。そこで会社存続のため、自分は社長の座を退き、辰夫に継がせることを決断する。そして「何を聞かれても、『自分は知らない、初代が一人でしたことだ』と言うように」と、繰り返し辰夫に言い聞かせた。結局は杞憂に終わり、実際に責任を問われることはなかったが、これ以降、善次は工場で船大工の仕事に専念したのである。

二代目強力 辰夫
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